最近、自分の英語力が技術力や責任に追いつかなくなってきた。

こんばんは、まんちかんです。
先日公開したSingletonに関する記事がQiitaで週間ストック数ランキングに載って少し浮かれてます。

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とはいえ、まだまだ13ストック、もっと良い記事をどんどんアウトプットしていきたい所存であります。

 さて、あまり記事を更新しないでおくと書く習慣が無くなりそうなので、また技術関連以外の記事をば。若干ネガティブな記事です。。

最近英語力の低さに足を引っ張られてる

 最近、自分の英語力が、技術力や与えられた責任に対して追いつかなくなってきてるなと感じる事がとても多いです。
 僕は業務上、アーキテクチャや設計に関して外国人のTech Leadの同僚とディスカッションしながら進めていくことが多いのですが、僕自身の英語力の低さがそのディスカッションの生産性を明らかに下げているのです。

 僕も技術者の端くれなので、週末には新しい技術を学び、新しい概念を覚え、その使い方やメリットデメリットをコードに起こしたり、記事やノートにまとめたりしてるわけです。
 しかし、いざその知識を最大限に活用して生産性を上げていかなくてはいけないという英語でのディスカッションの場で、自分の考えていることや学んだ知識を、日本語で説明できるほどに論理的に説明できないのです。

 最初は「なんだかうまく伝わらないな、相手の頭の良さを考えれば当然納得してもらえるはずなのに・・」と首を傾げていました。
 しかし、そう言った機会が増えるにつれ、だんだんと、自分の英語で説明してる事が全く論理的じゃない、むしろ覚えたことを断片的に説明してるせいで、全体でみると完全に支離滅裂になっていることに気づいたのです。

 当然ながら、自分の頭の中には論理的で、技術的にも信頼に足るはずの意見がそこに存在するのです。(そこは日本人のTech Leadたちと話す中で、ある程度は客観的に正しいと指示される理由が十分にあるということは確認しました。)
 しかし、口から流れ出る英語には一切の論理性が欠落し、断片的に提供される専門知識らしき何かが場を混乱させているのは明らかなのです。

 また、それだけではありません。同僚の中には同じく非英語ネイティブの中国人の同僚もいるのですが、彼の理論の展開の早さに、僕の英語力が追いつけないのです。
 彼の言ってることに対して、日本語での意見や反論は浮かびます。しかし、その反論を的確に英語で表現しようと四苦八苦する間に彼は次の議論を展開させる。もはや僕は彼にとって足手まといでしか無くなってしまっているのです。
 同じ非英語ネイティブゆえに、言い訳もできません。彼と同じ役割を期待されるには、僕の能力はあまりに低い。

今まで、真面目に英語を勉強したこともなかったし、英語に苦しめられたことはなかった。

 一応コメントしておきますが、僕は決して英語が苦手なわけではありません。むしろ、自慢じゃないのですが、と言いつつ自慢なのですが、どうも英語は才能があったらしく、中学校で初めて英語を勉強し始めて、中学二年生くらいには簡単な会話はでき、中学を卒業する頃には普通の日常会話はこなせるようになっていました。

 初めての海外はシンガポールで、大学生の時に英語力を買われて、ある会社の社長の代理で出張したのがきっかけでした。
 そのままの流れでいくつかの国で働き、今でも海外に住み、仕事も八割英語だし、日本語が喋れない外国人の子と付き合ったこともあるし、facebookの友達も半分以上が非日本語話者です。

 何かを考えるとき英語で考えて英語でレスポンスするというやつも、英語が日常になった頃から自然にできるようになりました。むしろ、英語話者と話してる時に日本語で考えることは稀で、それができないことはネイティブと話してる時一番の足かせになることも経験的に理解しました。
 つまり、英語って僕にとって頑張って勉強するものではなく、ナイフとフォークの使い方や自転車の乗り方同様に、生きていれば自然に覚えて自然に上手くなる日常習慣みたいなものだったんですね。

 だからこそ、自分が英語で自分の考えを論理的に説明できない事がとてつもなくショックでした。  今までだってディスカッションはたくさんして来たし、その中で自分自身の技術力や思考力の不足が足かせになったことはあっても、英語力そのものが足かせになった経験はなかったのです。
 むしろ、だからこそ圧倒的に先を行く彼らに追いつくために、必死で技術の勉強をして来たのですから。
 しかし、今、やっと技術者としてそこそこの信頼を得るに至った今、かつて歯牙にもかけた事がない英語力というスキルが自分に欠如していることに気づいてしまったのです。

言語を甘くみていた。

 考えてみれば当たり前のことなんですよね。
 扱う概念が高度になれば、それを説明するための言語表現も高度化する。
 その言語表現の高度化に対応するためには、言語そのものに関する知識や使用する経験がどうしても必要になる。

 とはいえ、これは言い訳なのですが、少なくとも僕は、言語で表現する能力に関して、僕はそれが訓練を必要とする能力の1つであるという認識はしてたつもりでした。
 しかしそれは、概念を自分なりに解釈し、論理性と情報を失わないように並べ替え、あとはそれを適当な言語で説明するだけ。つまり、重要なのは最初の2つの能力で、言語で説明するというのは終端処理、言ってみれば、書き起こしたパワーポイントをプリンタで印刷するくらいの誰にでもできることだと思っていたのです。
 こう言った言語そのものに対する思い上がりに、まさかこんな取り返しのつかない段階になって足を掬われるとは思ってもみなかった。

これから

 僕は海外で働くのが好きですし、これからももっといろんな国で働きたいと考えています。
 しかし、今の英語力でもっと責任のある仕事や決断を求められる場面、後輩や部下を引っ張って行く場面や今より高度な教育をしていかなきゃいけない場面に対応できるとはとても思えません。

 ジョルノジョバーナじゃないですが、僕にも人には明かしたくない目標があります。
 その目標にはどうしても英語は必要不可欠になりますし、こんなところで躓いたまま前に進むわけにはいきません。だからこそ、今一度、英語という奴に真面目に向き合わなきゃいけないのかなと感じています。
 むしろ、今気づけたこと、気づかせてくれるような同僚と働けていること、そんな同僚に引き合わせてくれた人達に巡り会えたことに、心ばかりの感謝しているという事を述べて今回の記事を締めたいと思います。

 なんか意識高い系の人みたいになっちゃったな、ま、いっか(笑  それでは!