背中を見て学べってそんなに悪だろうか

 たまには技術関連以外の記事をば。

 背中を見て学べ、という教育方法は、ここ最近あちらこちらで、それはそれはいろんな言い回しで批判されにされまくっている。
 自分がきちんと理解してないから人に教えられないんだとか、教育は上司の仕事なんだから見て覚えろは上司の怠慢だとか、あなたたちの世代とは必要な能力が違うんだから見て覚えるにも限度があるとか。
 もっとも、批判している本人たちはこの教育方法そのものよりも、むしろ特定の個人を頭に描き、その人物に面と向かって言えないことを、より大きな問題に消化して鬱憤を晴らしているように見えなくもない。その気持ちも理解できなくもないが、なんとなく、みっともないな、かっこ悪いなというのが、同世代の僕からの個人的な感想だ。

新人達の言い分と同情すべき上司達

 とは言え感情的な面では違和感を覚える一方、理論的に言えば彼らの言っていることも理解できなくもない。僕の大学時代の専門であった人的資本論的に言えば、技術革新が進めば進むほど、一つ一つの仕事を行うのに必要な知識や経験の量(人的資本の蓄積)は大きくなる。 昔は経験と感で行えたものが、新しい技術を使用することで、より効率的に行えるようになった一方、ある程度の専門知識を必要とするようになる。
 おそらく専門性を振りかざすまでもなく、誰もが経験的に理解していることだと思う。

 このように、社会が要求する能力がより高度にならざるを得ない以上、その能力の蓄積を助けるのは社会の責任であり、日本は体面上はその責務を果たしてきた。
 かつては大半が中卒で就職していた人々が、やがて高等学校を卒業するのが普通になり、だんだんと大卒の割合が増え、最近ではマスター以上の学位を要求する職種も少なくはなくなった。
 最も、ご存知の通り、それぞれの教育機関はその役割をきちんと果たしているとは言えず、またかつての終身雇用時代の名残からか、企業も学生たちに対して専門性を求めることはしない。専門性を求めない以上、業務に必要な専門性を教育するのは企業の役割であり、その教育の最前線にいるのは先ほどの槍玉に挙げられ続けている上司や先輩と呼ばれる人々だ。先ほども述べたように、技術が進めば進むほど押せなくてはいけない知識や経験の量は増える。つまり教育に割かれる時間も増えるのだ。

 あぁかわいそうに、教育のプロというわけでもないのに、自分の仕事もこなしながら、何もできないひよっこに一から手取り足取り教えなきゃいけない。その上少し手を抜けばツイッターで叩かれ5ちゃんで叩かれ上司にも叩かれ、ろくなもんじゃない、なんて日だ!
 っと、まぁそんなこんなで、変わる技術と変わらない社会、そしてその中にあるまた小さな社会の構成員の上と下、それぞれがうまい具合にバランスをとってこの不遇な状況を生み出している。
 僕から見れば、どちらかと言えば上の人の方がかわいそうだ。なにせ下の連中には社会に支持されガチな、わかりやすい正義がある。
 上の連中は立場上弱音も吐けず、社会に支持されるわかりやすい正義も持たず、自分を支持しない社会に押し付けられた余計な責務を日々全うしなきゃいけない。かわいそうで涙が出てくる。出てこない。

背中を見て学ぶのは意外と楽しい

 まぁ、別に上の人間を擁護することも、下の人間を叩くことも、本題ではないのでそろそろ本題に移りたい。
 少なくとも、背中を見て学べ、見て覚えろというのは、僕の人生経験上はそれほど悪いものではなかった。例えば武道や絵、ギターなどの趣味は、自分で軽く勉強したりさわりだけ教えてもらった後、実際に誰かが実演するのを見たり聞いたりして、模倣しながら覚えた。英語もエリック・クラプトンやクイーンの歌詞を覚えたり、学校に来ていたELT(外国人教師)の話し方を真似たりするうちに自然に覚えていった。
 僕の現職であるシステムエンジニアリングなど最も顕著だ。まず自習でHello World!をコンソールに出力することに始まり、DBのアクセスの仕方やHttpリクエストの仕方をネットや社内に散らばる他の人のコードから覚え、そのうちそれらのコードからデザインパターンやアーキテクチャの設計パターンを知り、そうやって新しく知った概念を、書店に走り、KIndleをあさり、ネットサーフィンしたりしながら独学で身につけていく。
 その中で誰かが手取り足取り教えてくれるのは環境のセットアップやバッチの叩き方くらいだろう。(この業界はアウトプットを共有する習慣があるので少し生きやすいところがあるのは事実だが。)

 誰かの模倣に始まり、振る舞いを観察し、その理由を解釈し、解釈したことを実践し、実践する中で問題に突き当たり、解決策を考え、何となく身について来たところで体系的な知識を学ぶ。そういったプロセスを経て、完全に自分のものにするという営みは、おそらくやったことがない人には想像もつかないくらいファンタスティックだ。超楽しい。
 ジムに通い始めて数日経ったある日、ふと胸板が少し厚くなってるのを感じた瞬間を思い出してほしい。あぁいう感じだ。

模倣はオリジナリティの源泉

 誰かの模倣をしながら、仕事や技能を徐々に身につけていくということは、また別の楽しみもある。それは、そのプロセスの中で、少しずつ自分なりの解釈や本質を認識し、オリジナリティを付加していけることだ。
 センター試験か何かの現代文の問題で、筆者自身がツイッターで「筆者そんなこと考えてなかったわ、ごめんな受験生笑」みたいなツイートをしてるのを見たことがある。あれは実はすごく面白くて、筆者自身がそういう認識で書いていなかったわけだが、読み手が論理的に解釈することで、その文章から新たな意味や視点を引き出している。これは筆者自身がそう認識していなかったとして、それが論理的に筋が通ることであれば、現実世界では正解といって良いものだと言うことだ。と、個人的には思う。
 見て学ぶというのも同じことで、誰かの模倣を繰り返す中で、その人の振る舞いの意味を自分なりに解釈し、その解釈を自分の行動の根底に置くことができる。
 例えば、なんでこのおじさんは座ってるお客さんに話しかけるときは少し首をかしげるのだろう、なぜこのお姉さまはループ処理でたまにStreamを使ってたまにforEachで回しているのだろうなど、模倣する対象の人が意識的もしくは無意識的に行なっている行動に自分なりの解釈を行う。
 その解釈を他の仕事や作業に応用することで、その人から直接教わった後模倣していただけでは得られなかったオリジナリティが生まれる。

 実際、StreamとforEachのかき分けくらい具体的な行動であっても、実は本人はなぜそういう風に書き始めたのかを言語化していないことは意外と多い。今までの経験上そう書いた方が効率が良いのは理解しているが、いざなぜかと問われると言語化するのに時間がかかる。
 なにせ本人にとってはもはや反射で行える程度には内面化しており、わざわざ言語化して記憶して置く必要がないものだからだ。
 こういった類いのものは、普通、事前に手取り足取り教えようとしてもなかなかパッと出てこない。

 当たり前だ、なにせ本人にとってはもう癖の領域のことなのだ。具体的な場面に遭遇することなく網羅して後輩や部下に教えることなどできない。
 しかし、例えば僕がその行動を自分なりに解釈し、先輩がこうしてる理由ってもしかしてこういうことですか?と問いかければ、彼女・彼はもしかしたらその問いをトリガにうまく言語化して説明してくれるかもしれない。  もし認識が違ったり、もしくは自分の解釈が実は優れていたりした場合、ディスカッションを通じてまた新しい視点をお互いが獲得できることもあるだろう。

 僕は、オリジナリティの源泉は本質に対する解釈とその抽象化、そしてそれらの概念の組み合わせだと思っている。正解があらかじめ上司や先輩から提示されていたとしたら、解釈に多様性は生まれないし、最終的な到達点はその人のクローンが関の山だろう。
 僕は中二病患者なので、誰かのクローンになりたいとは思わない。だからこそ、逆に誰かの模倣から始め、解釈を加え、オリジナリティを自分の行動に付加していくことは、誰かのクローンから脱却するために必要な手段だと考えている。これもまたファンタスティックだ、とても楽しい。

いいサブタイが浮かばないけどちょっと別の話

 では、誰かに手取り足取りきちんと教えてもらいながら覚えていく方法では、そういった体験はできないのかといえば、決してそんなことはない。ただ 頻度の問題だ。
 普通に生きていればなんで彼はこうするのか、なぜ彼女はこういう方法をとるのかと考える場面に出くわすことは決して珍しいことではない。ただ、事前にやり方や手順、その意味を誰かに教わっている場合、その理由を考える機会は失われる。つまり、考える頻度が減ってしまうのだ。
 背中を見て学べというような上司のもとでは、自然にそういう観察や解釈を行う機会が増える。これは実はとても良いトレーニングになる。こういう機会なしに誰かの動きや振る舞いを観察したり解釈したりを日常生活で行うのは、人間観察が趣味と声高に叫ぶ自意識過剰気味な大学生か研究が趣味の領域にまで達した文化人類学者などの人文科学者くらいのものだろう。

 高度な技術を持つ人間ほど僕にマンツーマンで指導してくれるような時間はない。ゆえに彼女や彼の技術を盗もうと思ったら、見て盗むしかないのだ。

 普段から見て盗む、見て学ぶということが習慣になっている人間とそれ以外では、仮にそういった人たちと話したり一緒に仕事したりする機会があったとき、得られるものには大きな差が出てくるだろう。
 なんでも教えてくれない上司や先輩というのは、最初は少しやりづらく感じたり、理不尽に感じたりすることはあるかもしれないけれども、なんとか食らいついていくと意外と学ぶことは多い。

自己擁護とまとめ

 一応断りをいれておくけれども、当然ながら、見て学んでも得ることがない上に効率が悪いことはある。例えば、経費精算の仕方や年末調整の仕方など、方法が決まっていて考える必要がないことに関しては、さっさと聞いてさっさと終わらせた方がいい。(自分が経理や人事担当者なら話は別だけども)
 そういうことは、上司なり担当の社員なりにバンバン聞いてさっさと終わらせてしまった方がいい。それすらも教えないというのであれば、上司がそのくだらないことに貴重な人件費を使っていいと判断したということなので、思う存分見ながら書き写してしまえばいい。それもダメならその時はそれこそ正義を振りかざしTwitterに正論の皮を被った愚痴を思う存分書き込めばいいと思う。

 まとめると、上司も自分の経験や知識をきちんと言語化できている訳ではなく、全てを事前に教えてもらえるというのは期待しない方がいい。自分なりに上司や先輩の背中を見ながらなんとなく解釈したり修正していくと、能力が自分の内面化するだけでなく、ただ教わるだけでは得られなかったオリジナリティが得られるかもよということだ。

 まぁ、言語化しないとか文書化しないのは絶対悪なんだけど、なんでもかんでもそうできる訳じゃないし、背中を見て学べ論も頭ごなしに否定しないでフォローしてみるといいことあるかもよっていう、それだけ言いたかった。  以上。